寺伝(医王山国分寺縁起)によれば「新田義貞朝臣此の地の分陪河原にて合戦の日当寺の堂塔伽藍一時に焼亡せり」とあり、武蔵の国が総力を挙げて建立した大伽藍も、この戦いで惜しくも灰燼に帰しました。元弘3年(13335月のことであります。

そもそも諸国に国分寺が建立されることになったのは、天平13年(741324日の詔(続日本紀)によりますが、聖武天皇(701756・第45代)がこの詔を発せられるに到った動機は、当時大流行した疫病(朝鮮半島から九州に入り全国に蔓延した天然痘)と飢饉から国を護り、国民を救うことでありました。その「国分寺創建の詔」には「朕薄徳を以って恭く重任を承け、未だ政化を弘めず 寤寐多く慚づ一畧一頃者年穀豊かならず、疫癘頻りに至る一畧一広く蒼生の為に、遍ねく景福を求む」とあり穀物の不作による飢餓や、当時の医学では如何とも成し難かった病気の流行を、仏のカにすがって鎮め、国民を幸せにしたい、との強いご決意の様子が伺えます。また皇后の長兄に当たる藤原武智麻呂(藤原不比等の長子)など4入の兄達の相次ぐ病死や、全国の多数の餓死、病死者の菩提を弔う意味もあられたことでしょう。それら多くの要因があって発布された詔であります。

詔は続いて「宜しく天下諸国をして各七重塔一区を敬造し」と七重の塔の建立と「其れ造塔の寺は兼ねて国の華たり。必ず好処を択んで実に長久たるべし」と、立地条件の良い場所に建立するよう、行き屈いた配慮がなされております。各国はこの詔の意を体しながらも、それぞれの国情に合った方法で国分寺を建立します。

武蔵の場合、この地の東西880メートル南北550メートルの広大な敷地に、20年余の歳月をかけて、国分僧寺と国分尼寺を完成いたしました。地理的にみると、当時の武蔵の国(東京都、埼玉県の全域と神奈川県の一部)では相当南に片寄った場所に当りますが、これは武蔵の国府(府中市の大国魂神社付近)にほど近く、違か西南に富士を望み、緑豊かで湧水の溶れる丘陵(国分寺崖線)を背景に持った景勝の地であることが、国分寺の創建にふさわしい好処と避定されたからでありましょう。

それではどうして国分寺を建立して、仏の力で病気や天変地異から国を護ろう、とされたのでしょうか、これも詔に「金光明最勝王経、妙法蓮華経各十部を写さしむ、朕又別に擬して金字の金光明最勝王経を写して塔ごとに各々一部を置かしむ」とあり国分僧寺、国分尼寺建立の依)拠となったのが、この二つの経典(仏教の思想を記したもの)であることが判)ます。詔は次いで「僧寺には必ず二十僧あらしめ其の寺名を金光明四天王護国之寺となし、尼寺には一十尼あらしめ其の寺名を法華滅罪之寺と為し」と経典にちなんだ寺名を定めております。国分僧寺建立の所依の経典となった「金光明最勝王経」は、彼の玄奘三蔵(600664)の足跡を慕ってインドに渡り、20年余ナーランダ寺で仏教を学び、多くの経典を携え期天武后の時代に帰国した、唐の義浄(645713)の訳になるものです。この経典が最初に我が国に伝えられたのは、天武5年(677)で、当時は「金光明経」(インド僧・ドンムシン訳)といったが、義浄はその後、この経典を増訳し「金光明最勝王経」といたしました。その増訳した「巻第五・四天王観察人天品第十一」にこの経を説く法師を恭敬し供養する国王あらば我等四王、皆共に一心に、是の人王及び国の人民を護り、災患を離れて常に安穏を得しめんと四天王が国や王や人民を護る決心を述べています。また「巻第六・四天王護国品第十二」では、この経典を信ずる人々を、四天王がよく護っている、と知った世尊(仏)が、四天王に若し人王ありて、此の金光明最勝の経典を恭敬し供養せば、汝等応に勤めて守護を加え安穏を得しむべし。一畧一汝等(四王)若し能くこの経を護持せば、経力に由るが故に、よく諸々の苦、怨、賊、饑饉及び諸々の疾疫を除かん。この故に汝等四衆、この経王を受持し読誦する者を見ては一畧一守護を加えて為に衰悩を除き安楽を施与すべし(国訳大蔵経)と諭されております。
義浄の金光明最勝王経の完成は則天武后の長安3年(703)頃とされておりますが、その内容を詳し(聖武天皇に伝えたのは、当時唐に留学中(701718)で養老2年(718)に帰国した遣唐留学僧の道慈(?~744)であろうといわれております。(東大寺・平岡定海師)このように金光明最勝王経に深く帰依し、長年病気と飢餓に苦しむ国民と、日本の国を救おうと発願し、詔して建立されたのが国分寺であります。

この詔によって全国に国分僧寺68ケ寺と国分尼寺(尼寺は不明なところもあり実数は省畧)が建立されましたが、武蔵国分寺も諸国の国分寺も時の流れと共に次第に衰えてまいります。それでも武蔵の場合、元弘の兵火に遭うまで約600年という長い歳月、武蔵の国の平和の象徴として存在いたしました。当時の時代背景から見て、この国分寺が仏教信仰以外に、現在の大学や病院、或いは福祉センタ一のような多くの役割を果たしていたと思われます。
国分寺の創建で共に語られなければならないのは、聖武天皇のお后であられた光明皇后(701760)のご事績と、東大寺のことであります。光明皇后(藤原不比等の第三女)は生来ご聡明で教養深く、徳高く、信仰心に富み、病める人、貧窮の人々に尽くして衆望厚く、美しい方であられました。聖武天皇も大きな影響を受けられだと言われておりますが、こゝでは、あの世界に冠たる正倉院御物(聖武天皇の遺愛の品々)が光明皇后のお陰で1250年余の今日まで立派に残り、伝えられていることを記すにとゞめたいと思います。

次に東大寺のことについてふれますと、それは国分寺創建の詔が発せられた2年後の、天平15年(7431015日「慮舎那仏造立の詔」が発せられたことによります。まだ諸国の国分寺は完成しておらず、むしろ緒についたばかり、といった方が道切でありましょう。その時期に総国分寺として東大寺を建立し、その本尊として大仏を造立しよう、と考えられたのであります。詔して「誠に三宝の威霊に頼りて、乾坤相泰かに、万代の福業を修めて、動植咸く栄えむことを欲す」と、慮舎那仏は正しくはビルシヤナ仏といゝ、絶えず光明を輝かせ、その光明によって凡ゆるものを救済する、とされております。昆廬舎那仏は華厳経の説く蓮華蔵世界の教主です。華厳経は天平8年(736)唐僧ドウセンによって伝えられました。
国分寺は前述の金光明最勝王経の説く、諸々の災厄から国を護る思想のもとに釈迦如来を本尊として建てられましたが、東大寺は華厳経の説く思想に基づいて建立され、昆廬舎那仏を本尊といたしました。華厳の説く世界とは、生きとし生けるものをはじめ、森羅万象は全て互いに関わり合い、個々の区別が有りながら一体となっている。それはビルシャナの世界であり、その象徴が昆廬舎邪仏である、と説かれています。
各国に国分寺を建立し、それによって国々は個別に護られているが、それが一体となった形の日本全体を護る仏(昆廬合那仏)と寺院を建立しなければならない。そして華厳の説く理想の国を築かねばならない、との思いで発せられたのが大仏造立の詔であります。諸国の国分寺を総国分寺(東大寺)でまとめ(総国分尼寺は法華寺)昆廬舎邪仏を完成したことで、聖武天皇が深く帰依された仏教(華厳思想)の理想の世界、理想の国土が実現したのであります。
有名な大仏開眼の法要は詔から9年後の天平勝宝4年(75249日インド出身の菩提僊那が導師を勤め盛大に行われました。これは病気や飢饉に苦しむ国民を救い、平和で豊かな理想の国を築こうと志し、自らも大仏造立のため土を運んだと伝えられる、聖武天皇の悠久の国づくりであり、天平の壮大なロマンであります。その一翼を担った大国、武蔵の国の国分寺も、その役目を終え猛火はまさしうおしかけたり。わめきさけぶ声、焦熱・大焦熱一畧一煙は中天にみちみち、ほのをは虚空にひまもなし一畧一されば天下の衰微せん事も疑なしとぞ見えたりけるこれは東大寺の炎上(治承4年・1180)を告げる平家物語の一節ですが、わが武蔵国分寺もこのようにして炎上し、消滅していったのでありましょうか。縁起は「此の時薬師如来の霊像並に十二神将は2町ばかり彼方の林の内に飛び去り居たもう一畧一数多の霊宝たちまち火烙となりて焼失せり」と記しております。飛び去って兵火をまぬがれた薬師如来は「新田義貞の朝臣より建武元年(13344月黄金三百両、伽羅二首目禽獣花の縫の打敷一枚」の寄進があり、それによって翌建武23月には六丈余の堂宇が完成し、ここに祀られ、7月に落慶の法要が行われたと記されております。本尊である筈の釈迦如来ではなく、薬師如来が飛び去って・難を逃れたのは、既に当時の薬師信仰が、何故か国分寺創建の理趣を超えていたからでありましょう。

最も薬師信仰そのものは薬師寺(天武9年・680)の建立にみるように長い歴史を有しており、現存する国分寺も、そのような理由でか、多く薬師如来を本尊としております。

新田義貞公の寄進で建立された薬師堂は、約430年後の宝暦年間(17511763)現在の丘陵上に建て替えられ、この薬師如来(国指定・重要文化財)を中心に除々に形態を整えて今日を迎えております。往時の大寺を思うとき、今は唯現国分寺の本尊薬師如来と多くの礎石や古瓦、また当時を生きた人々の心にふれた草木を集める万葉植物(第二十八世亮勝の採集)が、遥かな天平の武蔵国分寺を、わずかに偲ばせております。(国分寺住職)

薬師如来は毎年十月十日が開帳法要で、その折に一般公開されます。

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